研究会ブログ

宗次徳二氏著書『日本一の変人経営者』

3月16日の第82回文化経済研究会でご登壇いただく、CoCo壱番屋(以下ココイチ)創業者 宗次徳二氏の著書『日本一の変人経営者』をご紹介します。

 

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宗次氏は26歳の時にココイチの前進である喫茶店を名古屋に出店します。

そして4年後には『カレーハウスCoCo壱番屋』を創業。

その経営スタイルはまるで修行僧のように実直。朝早くに起きて店頭のみならずお店の清掃も行い、アンケートはがきにも全て目を通す。

実は本書には特別な経営メソッドは書かれていません。宗次氏が行っていたのは、目の前の顧客や問題にただ誠実に向き合っていくというそれだけだからです。

しかしながら、その向き合いっぷりは常人の体力を悠に超えており、そこが本書のタイトルでもある「変人経営者」である所以です。友人と遊ぶ間や映画を見る間さえ惜しんで仕事をする宗次氏の経営の特徴はとにかく早起き。

 

「私は毎朝4時10分におきて、4時55分には出社するようにしていた。夏でも冬でも、雨の日も雪の日もこの仕事のスタイルは変わらなかった」

 

そして平成8年は

 

「今年は366日、一日も休まないで5500時間以上仕事をしよう」

 

という年間目標を掲げて結果、1年で5637時間の労働を達成したそうです。

 

芸術、スポーツ、学問などの分野では1万時間をその分野に捧げればプロとして戦えるだけの力が付くということは「1万時間の法則」などと呼ばれています。

宗次氏の場合、年間5000時間を経営に捧げたということはおよそ2年弱で経営者としてプロの領域に達するということ。

口にするのは容易なことですし、やる気に燃える人であれば明日から実践しようと今夜は目覚まし時計をいつもより2時間ほど早めてベットに付くかもしれませんが、このテンションが持続するのはおそらく精々1週間というところ。

宗次氏の場合はこれをほぼ半生にわたって続けているという点が尋常ではありません。経営という使命に対して常に高揚感を持っていなければ眠りの魅力には抗えないもの。

巷には様々な自己啓発本が溢れていますが、その大半に当てはまるのは「言うは易し、行うは難し」。

 

とにかく沢山の時間を経営に捧げるというある意味で非常に単純なメソッドを実行し続けた宗次氏です。

経営者や社長友達とゴルフなどをすることもなかったそうです。理由は「時間の無駄」だから。経営に無駄なことは一切しないという経営スタイル。

 

と、ここまで読むと仕事のこと以外はどうでも良い冷徹な人間のように思えてしまいますが、本書にはことあるごとに妻である直美さんについてページが割かれ、二人三脚で自分を支えてくれたことに対する感謝で溢れており、宗次氏が本当に目の前の人に対して誠実に人生を送ってきた人であることがよく分かります。

 

なお、宗次氏は大のクラシック音楽好きで2012年には資財を投じ名古屋に「宗次ホール」をオープンさせています。「暮らしの中にクラシック」をテーマに、高額なイメージのあるクラシックのコンサートを最安1000円で提供。

ここでも重要なのは周辺の人に対して自分ができることが何なのかを考えて実行しているということであり、宗次氏の経営哲学はいまだ健在です。

文化経済2016.1月講演レポート②/松浦弥太郎氏

第82回文化経済研究会第2部講師は、元『暮しの手帖』編集長・現クックパッドの松浦弥太郎氏。

 

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■ひょんなことから『暮しの手帖』編集長に

松浦氏が『暮らしの手帖』と初めて関わったのは、故花森安治氏の展示が催された際、古書店やエッセイストとして活動していた松浦氏にキュレーターの方から声がかかり、講演を任されたことが縁。

 

「2005年という時期はライフスタイルや暮らしなどを素敵に見せるというテーマで多くの雑誌が刊行されていました。

方や『暮しの手帖』は全盛期は100万部の売り上げがあったのですが、2005年には10万部を切っていたんです。編集長も1年や2年ごとに変わり、これ以上部数が落ちてしまうと会社として成り立たないという瀬戸際でした」

 

「僕は一読者として『暮しの手帖』にエールを送ろうと思いました。当時の『暮しの手帖』は色んな商品をテストしてダメな商品であれば蹴飛ばしたり窓から投げたりしていたんです。良い商品であれば褒めちぎる。そういう感情的なところがあって、それが支持されていた要因でもあったんですが、僕は逆に『暮しの手帖』自身をテストするという視点で講演をしました。世の中はこんなに変わりましたが、『暮しの手帖』は変われていますか?と」

 

講演の前列には歴代編集長や役員・幹部が並び、松浦氏は肝を冷やしつつも講演をやり遂げると創業者の大橋鎭子さんに何故か大変気に入られることに。

 

「『あんた編集長やりなさい』と。僕その時点で2回しか会ったことないのに。やったほうが良いと言い張るんです。毎日のように電話が掛かってくるし、本当にしつこいんですよ(笑)。

僕は編集者の経験も無ければ、雑誌を創刊したことも無いのに」

 

そんな僕にどうして編集長を任せようと思ったんですか?とお伺いすると、大橋鎭子さんは

 

「知りたい?」

 

「そりゃあ知りたいですよ!」

 

「どうしても知りたい?」

 

焦らされる松浦氏。

 

「教えてくれなければできません」

 

「じゃあね、教えてあげる。理由は『勘』よ」

 

勘。

その言葉に半ば拍子抜けした松浦氏でしたが、

 

「教えてあげたんだから、もうあなたで決まりだからね」

 

と笑う大橋鎭子さんを見てなんとなく覚悟を決めてしまった松浦氏は2日後に早速会社に連れて行かれ、2005年の10月に『暮しの手帖』編集長に就任したのでした。

 

■家族全員で楽しめる雑誌

当時の雑誌ターゲットは「25歳女性」や「35歳男性」など、ターゲットが細かく細分化されているのが常識的でしたが、松浦氏はあえてそこで幅広いターゲットを設定しました。

 

「暮らしの手帳は広告が無いので、収入源が売上しかない。読者が作り手と一緒に年を取ってしまえば、このままでは自然消滅します

60代や70代の読者だって、「新しい『暮しの手帖』」を期待している。そう編集部を説得して家族全員で読める暮らしの手帖を目指しました。お母さんが買ってきて、娘さんも読む、おばあさんも懐かしがって読んで、お父さんも皆が読んでるので何だろうと思い読む、最後に息子がなんとなく眺める」

 

「最初の3年間はクレームばっかりでした。『もう読みません』『私の暮しの手帖をどうしてくれるんだ』『20年間の読者ですが、もう読みません』って手紙が来るんです。メールじゃなくて手紙ですよ(笑)。手紙のほうがメールよりもボディブローみたいに効いてくるんです(笑)」

 

そこで、3年間は毎日お返事の手紙を書いていましたが、4年目からはクレームが一切来なくなり、雑誌の部数が伸び始めるように。

 

「世の中の流れと段々フィットしてきたことや、編集部の若い人の力もありました」

 

松浦氏は21万部超まで『暮しの手帖』を復活させますが、50歳という年齢と向き合ったときに、インターネットに興味を向けました。

アナログ派だった自分が、気付けば寝る前にスマホを弄っている。寝る前に読む、というのは正に『暮しの手帖』が目指しているものでしたが、それを実現しているスマホというメディアに嫉妬と同時に好奇心を覚え、クックパッドと縁があり2015年4月に入社。

 

「どういうWEBサービスを作ったら皆さんに喜ばれるかなぁと考え、7月に一般公開したのがWEBメディア「くらしのきほん」です。

暮しの手帖で培ったある種の知恵、それがいくつか使えると思ったんです」

 

■おばあちゃんが読んで楽しめるものを

「1つは「田舎で暮らすコタツで入ったおばあちゃんが読んで面白いと思うもの」企画会議をすると、皆さん知らない外国の料理とかを提案するんですけど、それじゃ読まれないんですよ。

そうじゃなくて、寒い地方の人気の無い山村でお婆さんが一人で住んでいたとして、そこに郵便受けに『暮しの手帖』が届き、お婆さんがパッと拡げる。

「あら素敵、これならすぐにできる」

「これもよく知ってる。面白い」

と、そう思ってほしい。代官山や表参道に住んでいる人にしか分からないものではなく、どんな人でも楽しくワクワクするものを作ろうということ。人は自分が知っていることしか興味が無い。知らない外国の料理よりも、カレーやギョーザや収納の話。それを深く掘り下げるんです。そしたら新しい何かがあるはず」

 

■『暮しの手帖』は震災を扱いません

もう1つ大事にしていた「知恵」は、「現実逃避させるメディア」ということ。

3.11で、東北の流通がストップし、雑誌の売上は激減だろうといわれた時のことです。

 

「その時、各メディアが被災地と放射能のことを調べ取材し、それぞれの見解を一生懸命に発信していたんですが、僕はその時に『暮しの手帖』ではそれは扱いませんと宣言したんです。

それよりも、美味しいハンバーグの作り方、おいしいうどんのこね方、素敵な手芸の紹介をしましょうと言ったんです」

 

「凄いバッシングを受けました。電話も掛かってきて、今こそ東北に行って放射能と被災者の現実を伝えろと言われました。

だけど、僕はしなかった。3月23日に『暮しの手帖』の発売日だったんですが、部数は1.5倍でした。そして5月は1.7倍。流通がまともに機能していなかったのに。

僕自身びっくりして、被災地の仮設住宅を訪ねました。すると読者の方が皆さん言うんですが、テレビも雑誌もネットも、悲惨な話しかしない時に『暮しの手帖』だけはどこのページを見ても震災のことも、放射能のことも書かれていなかった。

あの時皆さんは現実逃避するために『暮しの手帖』を選んでくれたんです。

雑誌やメディアは真実を伝えるという役割もありますよ。でも現実逃避させるという役割もあるんです」

 

松浦氏のお話は全てが平易な言葉で語られ、その中に横文字のビジネスワードが入ってくることはありませんでした。

そこからは松浦氏が聴講者全員に自分の話を分かってもらい、楽しんで、少しでも収穫があるようにと「心働き」されていることが伝わってきました。

誰にでも分かるありふれたことを、掘り下げるということを考えてこられた松浦氏のお話は非常に心に残るものでした。

文化経済2016.1月講演レポート①/津田大介氏

第82回文化経済研究会のご様子をお伝えします。

第1部講師は、ジャーナリストの津田大介氏。

 

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 さて、先週からSMAPの解散騒動が大きく報じられていますね。

津田氏は冒頭で

 

「あの生放送でSMAPの存続が決定して安心した、ホッとした、という方はいらっしゃいますか?」

 

と尋ねると、会場からはほとんど手が挙がらず、


「では公共の電波を使ってああいう謝罪をやらせるのはどうなの?と思った方は?」

 

と尋ねるとほとんどの方が手を挙げました。

 

「そうですよね?しかし、テレビ番組や新聞では『SMAPが存続してよかったね』という意見ばかり。伝える事実としてはそうなっているんです。あのSMAPの騒動は伝えられた情報の裏には誰が居るのかというメディアリテラシーの良い教材だと思います」

 

■情報環境が変われば仕事が変わる

津田氏が大学を卒業してまだライターとして仕事をしていた90年代半ば。十数誌のパソコン関係の雑誌で記事を書いていたそうです。

ところが、今やそれらは全て廃刊に。

 

「パソコンの雑誌というのは、こうすればグーグルで簡単に情報が手に入りますよ、こうすればブロードバンドでより安価にインターネットが利用できますよ、という情報を購読者の人たちに知らせていました。そうなればパソコンの雑誌がそもそも要らなくなります。

つまり、皮肉ですが自分たちの仕事がなくなるための手助けをしていたわけです」

 

パソコンがそこまで普及していなかった時代にも職業の淘汰はありました。例えば、1955年当時は日本電信電話公社が16万人も抱えていた「交換手」という職業はもう存在しません。

この十数年でカメラマンも激減しましたし、現像を請け負うカメラショップもほぼ姿を消しました。

 

■インターネットで生まれた仕事

「しかし、新しい技術によってなくなる仕事もあれば生まれる仕事もあります」

 

ある女性は写真共有SNSのInstagramで写真をアップするだけで数十万円の報酬を得ているそうです。彼女は企業の関係者ではなかった素人の女性ですが、写真のセンスで人気を博し、増加したフォロワーに目を付けた企業が彼女に自社製品の宣伝を依頼するように。


津田氏は、

 

「インターネットの良いところは”DIY”ができること」


と仰います。昔ならば自分でメディアを作ろうと思えば雑誌の創刊の為に百万円を超えるお金が必要でしたが、今やブログを作るのは無料。

「僕はこれまで色んな失敗をしました。100個やって5個ぐらい上手くいけば良いほうです。でも最近は技術の発達によって、試行錯誤のためのコストが圧倒的に下がっているんです」

 

■SMAPに学ぶメディアリテラシー

話は再び冒頭のSMAPの話に。彼らが公共の電波を使って謝罪を「させられた」ような形になり、多くの国民はジャニーズ事務所のやり方に違和感を覚えましたが、

 

「人は忘れっぽいですから、皆さん数ヶ月でこのことは忘れます。

寧ろあれはジャニーズ所属タレントに向けて強いメッセージを発信していたんです。『もし事務所を抜けようとしたらここまでのことになるぞ』という」

 

この説明には納得しました。

確かにいくら新聞社やテレビ各社が今回のことを「円満解決」に見せようとしても、どう考えてもバックにある構図に思いをやらずにはいられないあの謝罪会見。しかしジャニーズ事務所がもとより一般視聴者ではなく所属タレントへの警告を意図していたのだとしたらあの違和感も頷けます。

 

津田氏がメディアを読み解く際に大事にしているのは3つの情報源を確保することです。

つまり、「ネット」、「紙」、そして「人」。

 

ネットは速く、新聞やテレビには載っていない多様な意見が掲載されているものの、信頼性は低い。

紙メディアはネットでは得られない濃密な情報と、多くの人間の手を経ることによる信頼性は高い。

そして最終的には人。その場に居る人や関わってきた人が持っている一次情報は何よりも濃密な情報源になります。

 

「情報は自分という”エンジン”が動くための”ガソリン”だと思います。これから日本は大変な時代に向かうと思いますが、正しい情報というガソリンを入れて変われる人間には大きなチャンスが訪れるんじゃないかなと思います」

越智貴雄氏がパラリンピックで貰った表現を伝えていく

1月14日、日本デザインコンサルタント協会連続シンポジウムにお伺いしてきました。写真家の越智貴雄氏のお話が特に感動的でしたのでここにご紹介します。

 

越智氏は200年のアテネオリンピック以来国内外のパラリンピックやスポーツ大会を撮影、義足をテーマにした写真集『切断ビーナス』は世界中で大きな反響を呼んでいます。

 

「私が大事にしているのは、表現と伝達が世界を変える、ということ」

 

と越智氏は冒頭でお話され、パラリンピックとの出会いの話が始まりました。

 

越智氏がパラリンピックに出会ったのは2000年、シドニーでのこと。

オリンピックの取材を終えて帰国しようとしていたところ、パラリンピックの取材の依頼を受けますが、パラリンピックが迫るにつれて複雑な心情が募っていきました。

果たして障がいを持つ人にカメラを向けても良いのか、寧ろ車椅子に乗っている人を見れば手助けをするべきではないのか。

 

「それがですよ。開会式で驚いたのは皆が笑顔なんです。脚が無くて逆立ちで行進している選手も居ました」

 

オリンピックと変わらぬ活気に驚かされた越智氏が更に目を見張ったのは初日の車椅子バスケットの試合でした。車椅子同士がぶつかり合う衝撃やスピード感、片輪のみで立ったままボールをキープしたりなどの駆け引き。

100メートルを11秒で駆け抜ける義足の選手、オリンピック選手よりも速く走破される800メートルの車椅子走。

片足のみで1メートル80cm跳躍する高飛び。

 

「開いた口が塞がらなくて、本当にこんなことが起こっているのかとびっくりしました。毎日が興奮でした。自分の中で持っていたパラリンピックへのイメージがどんどん消えていきました。

最後に残ったのは、パラリンピックは「面白い!」これしか残っていなかったんです。これが僕とパラリンピックとの出会いでした」

 

撮影が終わり、何かを残したいという気持ちだったころにタイミングよく銀座のニコンサロンで写真展を開催することができ、多くの人が来場。

ところが、越智氏の予想していなかった反応がその中にはいくつかあました。

 

「障がい者の人にスポーツをさせるなんて」

「余計障がいが重くなったらどうするんだ」

 

「選手はスポーツマンとしての表現で僕の世界を変えてくれたのに、僕はそれを伝えることができなかった。

それが悔しくて、その後も毎回パラリンピックに行ったんです。当時パラリンピックのイメージは「がんばっている人、努力している人、大変な人」。僕のかつてのイメージと同じです。

そうじゃないんです。4年に1度の大会に人生を掛けている人達なんです」

 

選手が自分にくれた感動を表現し、伝達するために越智氏は試行錯誤を重ねた末に「選手のストーリーを丸ごと伝える」というコンセプトを採ります。

かつては新聞のスポーツ面ではなく社会面で取り上げられていたパラリンピックですが、徐々に普通のスポーツ誌や、週刊誌などでも一般のアスリートと同じような取り上げられ方をされる風潮に変わってきました。

 

越智氏の奮闘も甲斐あり、写真を見た障がい者の人からも

 

「自分たちがこんなに速く走れるなんて知らなかった」

「自分もスポーツをやってみたい」

 

という積極的なメッセージが送られてくることが増えたそうです。

 

2020年の東京オリンピックのキーワードの一つとして、「多様性」が挙げられると思います。何に関する多様性なのかという議論はありますが、パラリンピックは多様性に関して一石を投じています。

それが徐々にオリンピックと同列に語られるようになり、「多様性」という言葉がもはや意識されなくなった時、ようやく本当の意味での「多様性」が実現しているのではないでしょうか。

隈研吾氏著書『建築家、走る』

2020年東京五輪・パラリンピックの新国立競技場に、大成建設・梓設計・建築家の隈研吾氏で構成するチームが提案したA案が決定しました。

隈氏には2005年第19回文化経済研究会でもご講演をいただき、その建築に対するお考えをお話いただきました。

昨秋出版された隈氏著の『建築家、走る』にはその建築人生や哲学、さらには悩みやちょっとした愚痴など、隈氏の人となりまでが垣間見られる一冊です。

 

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■建築家という競争社会

昨今は都市にも個性が求められるようになって久しく、そこでブランド力のある建築家にランドマークとなるべく建築物のデザインを頼むということが一般的になっています。

建築家のもとにはコンペへの参加以来のメールが舞い込み、彼らはコンペに勝つべく世界中を行脚します。


「ぼくらはその戦いに参加して、選ばれないと仕事が始まらないことになり、いまでは1年中そういうレースに借り出されるようになりました。いってみれば、毎週レースに出なければいけない競走馬みたいなものです」


建築家としてはじっくりとまだ見ぬ建築に対する構想を練ることが理想ながら、実際はコンペに引っ張り出される中でその時間もとれず、事務所をつぶさないためには休みもなしに走り続けなければいけないのだとか。


■竹の家、裏話

隈氏の代表的な建築の一つが万里の長城のすぐ横にある『竹の家』。

一回チームで中国に遠征すれば使い切ってしまう程度の設計量しか貰えず、それが逆にクライアントのことも考えず自分のやりたい建築を思いっきりできた要因になりました。

本来であればすぐに腐ってしまう竹という材料を使ってしまい、提案は「破れかぶれ」だったそうです。

ところがそれがクライアントに予想外に受け、実現。

竹の家を気に入った映画監督のチャン・イーモウが2008年の北京オリンピックのCMの冒頭に登場させたことで隈氏の名前が中国にとどろき、その後にも大きく影響することに。


■建築家の宿命

文庫版の後書きに、隈氏は以下のような述懐を寄せています。


「(文庫になったということは、建築家の生活に一般の人が関心を持っているというよりも「反建築ブーム」と呼ぶべき動機にある)『反建築ブーム』とは何だろうか。わかりやすい例が「新国立競技場問題」である」

「建築というのが、あまりにもヴィジュアルであり、見えすぎてしまうから、炎上するのである」


どういった過程で、どういった力が働いて決定がなされたのかすらよく分からない問題が、


「「建築」という形をとったとたんに丸見えになる。丸裸になる」


全てが電子化されてあらゆるものが形を持たなくなってくる現代において、建築だけは相変わらず丸裸のままで聳え立つことを宿命付けられています。自分が作ったものがそこにあり続ける限り、建築家は常に評価あるいは批判される立場にあるのですね。

それは自らの分身が社会を物理的に形作っているという建築家という人々の宿命なのかもしれません。

津田大介 西きょうじ 『越境へ』

来年1月の文化経済研究会にてご登壇いただく津田大介氏と、津田氏の予備校時代の恩師であり、代々木ゼミナールで25年間教鞭をとるベテラン英語講師西きょうじ氏の対談『越境へ』を読みました。

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■越境へ。

 

タイトル通り、この本のテーマは「越境」であり、自分の行動を制限する様々な制約・ボーダーとどのように向かい合うべきかということについてお二人の思い出話とこれまでの人生を振り返ってのエピソードを通じ話し合われます。全体を通して非常に読みやすい書籍です。

さて、この「越境」は非常に広義な概念として本全体に貫かれており、

 

好きな女性がいるけど、彼氏持ちだからアピールできない。

友達になりたい人がいるけど、全く接点が無いから話しかけられない。

 

そんな小さなボーダーから、


起業してみたい、でも難しそうだからできない。

海外で生活してみたい、でも言葉が通じるか不安だから行かない。

 

などの大きなボーダーまで、ボーダーラインのこちらがわで戸惑っている人の背中を押してくれるものです。

我々は自らの能力とそれを制限するボーダーとを比べ、前者が後者を乗り越えられそうだとすればそれを越境するための行動を起こします。しかし最近は情報があまりにも手軽にかつ正確に把握できるようになってしまったので、頭の良い人ほど合理的な選択をしてしまい、なかなか「越境」をしない人が増えている傾向。

 

■無名ライター時代、150社を絨毯爆撃

津田氏の「越境」を示している分かりやすい事例は、ジャーナリストになるために津田氏が取った行動です。

今でこそ多面的な活躍をなさっている津田氏ですが、留年が決まった大学4年生の時はまだライターとしては駆け出しの時代。

その時にアルバイトとして働いていたライターさんの名前で150社ほどに手紙を書いて出版社に自分をアピールし、仕事を貰っていたそう。

 

これも言わば「越境」です。

ライターになりたい。

けど出版社に原稿を持ち込んで、もし断られたら傷つくし、そもそも出版社に沢山はがきを出すのはめんどくさい。

しかし、それら諸々のボーダーを越えることが結局は自分の運命を切り開くことになる。津田氏の場合も、この地道な活動で仕事をもらえるという経験がその後も常々役に立っていたそうです。

 

■忸怩たる想いが越境を促す

「ちょっとだけでいいので、自分は何者かにならなければいけない、何かを成し遂げなければいけないといった使命感や野心を持っていたほうが良いと思います(本文81ページ)」

 

津田氏の場合、成し遂げるべき使命の一つが明確となったのは東日本大震災においてでした。

震災発生直後から、地震発生から3週間、毎日睡眠時間は1~2時間でツイッターで情報を紡ぎ続けます。24時間とにかくツイッターで流れてくる震災情報と向き合って整理しながら発信をしている時に、「あ、自分はこれをするために就職しなかったんだ」と社会的使命と自分の中での欲求が津田氏の中でかみ合います。

 

阪神大震災の時は時間があり自由に動ける大学生だったのにもかかわらず、1000円の募金しか行わなかった、新潟中越自身の時も何もできなかったという思いが強く、それが忸怩たる思いとして津田氏の中で成長しました。

 

3.11が起こった際にも、自分の生活の為にいつもどおりの仕事を選ばざるを得ない人々が大勢おり、目の前の仕事の意味への問いを誰もが突きつけられます。

大手の出版社から声がかかったことも幾度もありましたが、あくまでフリージャーナリストを選んだ津田氏だからこそ、自分にしかできない役割を見つけて果たせました。

 

「境」の内側に居る人すべてに読んでいただきたい一冊です。

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