江戸の生活文化の最近のブログ記事

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去る6月29日、雨神退散!
天気予報を覆し、驚くほどの晴天に恵まれたこの日、
幽霊退治の前にお坊さまの力を思い知る
……。
初の試み、曹洞宗の若いお坊さまと江戸美学研究会とのコラボイベントは幸先も佳い。

禅僧が語る怖い話&なぜゆうれい退治には禅僧が登場する?
&座禅体験&ご祈祷体験と盛りだくさん。
あいにくとお運びいただけなかった方のために写真をちょいとおすそ分けしましょ。

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撮影/吉田勝美
大写しにされた葛飾北斎の「百物語 しうねん」をバックに
お坊さまが語り出したのは、四谷怪談でもなく牡丹灯籠、番町皿屋敷でもなく
お寺で起こるといわれる不思議な話。そして硫黄島で体験されたという怖い話…。
怖いには怖いが心にさざ波がたたないのは、これもお坊さまの力か…。

江戸、さらに遡る長い歴史のなか、暮らしとともにあった
祈りの心を知ることができた梅雨の宵…。
終始、厳かな空気に包まれ、日々を律することの大切さを教えてくださった

曹洞宗のお坊さまに感謝。
合掌

 

 

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——願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ——
これは、平安から鎌倉にかけて武士として僧として歌人として
生きた西行の辞世の句である。
花見の起源は奈良時代に貴族の間で行われた行事であったという。
当時の花は梅であったが、平安の頃になると桜となり、
「花見=桜」は現代まで続く。
この句に詠まれている花もまた例にもれなく桜である。
広く花見の風習が庶民にまで広まったのは江戸時代のこと。
八代将軍吉宗が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励したからだ。


——花の雲 鐘は上野か浅草か—— 
曇り空に咲き誇る桜と鐘の音を重ね合わせた芭蕉の句。
芭蕉はこの句を深川の庵で詠んだといわれる。
将軍家の菩提寺であった寛永寺の桜は、それは見事なものであったが、
歌や踊りを禁じられていたため、もっぱら庶民は隅田川堤や

王子の飛鳥山、御殿山、小金井堤まで足を延ばして
酒を飲み、歌い踊り、遊山を楽しんだという。
これが一年のうちでとっておきの楽しみだったことは
正月に着物を新調するのを我慢してでも花見のために誂えて出掛けた、
という当時の女性の心境からもわかろうというものだ。

今年は、灌仏会の日(4月8日)の下町の桜をご紹介。
ところは、上野と浅草の間の元浅草から松が谷にかけて。
ここいらは江戸から小さな寺院がひしめくあたりだ。
名所までいかずとも寺の庭も狭い家の敷地にも、
敷地をはみ出した鉢植えにもさまざまな種類の桜が
春の陽射しをうけ、咲きそろう。
しばし、花見をご堪能あれ。
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江戸にはもうひとつ桜の名所があった。
浮世絵にも多く描かれた吉原の夜桜……。
女たちには縁のない郭もこの時ばかりは町家の女達も訪れたという。
もともと、吉原に桜はなかったが、この季節にだけ染井の植木職が
仲の町の大通りに移植した。その数100本といわれる。
そしてつかの間の花が終わるとまた元の景色に戻したというから
その技術と江戸の美意識は底知れぬ。
まさに「諦め」と「潔さ」の美学である。

そろそろ花散らしの雨がくるころ。
また次の春までのお楽しみというところで……。
——散る桜 残る桜も 散る桜—— 良寛
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11月26日は、いよいよ三の酉。
日付がかわる頃には、今年一年の感謝、
そして新年の幸運を願って
多くの人が酉さまに駆けつける。
江戸の遊び心と洒落が盛り込まれ、徐々に華やかなものになった熊手だが、
もともとは近郊の農家の副業だったと語るのは
長年、浅草鷲神社に店を出す「八百敏」の清田一彦氏。
上の写真の立派な熊手も清田氏の手によるもの。
注連縄や俵、お多福もみな手作りだ。
一年かけて作った熊手が日の目を見るのは酉の市だけ。
寒風のなか、準備に三日間泊まり込むという。
三の酉まである年は大変だ。
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                                                                                                                                                                PHOTO:KATSUMI YOSHIDA

さて、熊手の買い方をご存知だろうか。
最初から大きなものを買うのではなく、年々大きなものに買い替えていく。
福に感謝し、育てていくのだ。
そして値切ってまけてもらった分はご祝儀として店に渡す。
これも福を独り占めしない江戸っ子の「粋」。
必ずそうしなければならないという慣らいではないが、
みんなが幸せに、気持ちよく年を越したいというのが江戸っ子の美意識なのだ。

最後に三の酉の年に火事が多いと伝えられるのは、
お酉さまを口実に吉原に通う亭主を足止めするために
女房たちが言い出したものと
いう説が有力ともいわれる。
ひと月に三回も吉原通いをされたんじゃ、
そりゃぁ、たまったものじゃない。
「お前さん、三の酉までの年は火事が多いっていうじゃぁないか。
外をふらついてて火事にでもなったらどうするんだい」
なんていう会話が、すぐそこから聞こえてきそうだ。
………お多福に熊手の客がひっかかり………

※江戸美学研究会編集2012年版『江戸帖』でも八百敏のご紹介をしています。
http://www.jlds.co.jp/edotyo/2011/07/post-3.html
 



 

本日は11月14日「二の酉」。早朝よりお参りに行ってきました。
境内に所狭しと飾られた熊手は、翌年の運を「かっ込む」、
福を「はき込む」という洒落がきいた、開運招福・商売繁盛を願う
江戸っ子の気持ちが込められた縁起物です。
熊手には枡、俵、注連縄、鶴、亀、松竹梅、おかめの面、
小判など様々な縁起物が付けられ、とても華やか。

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一方、もともと江戸時代に作られていた熊手はとてもシンプル。
「お守り」としての性格が強かったため、注連縄などに垂らされる
「四手(しで)」が必ず付いていたのだそうです。
そして飾りが少ないかわりにしっかりと見える熊手のツメが、
力強く福をかき込んでくれそうです。
境内の「ギャラリー」には、江戸時代の熊手が再現されて飾られていました。

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こちらの浮世絵よく見ると、右の女性の髪には「かんざし熊手」が。
すぐ裏手の吉原で人気があったそう。
左の女性が持つのは、「頭の芋(とうのいも)」。
「人の頭に立つ」、また芋は小芋を沢山つけることから
「子宝に恵まれる」とされ大変人気があったそうです。
現在も、浅草酉の市では頭の芋を扱うお店が出ています。

三の酉につづく、

11月1日、今年もあと2カ月……。日付がかわれば、一の酉が始まる。

今日、浅草の鷲神社の酉の市が有名だが、
元々は葛西花又村(現足立区花畑)
大鷲明神の祭礼でこれを本酉と呼んだ。
また、熊手が売られていることで商売繁盛などを祈願する人が多いが
これも元々は
正覚寺に祀られる大鷲明神の本尊、1寸8分の大鳥に乗る妙見菩薩
武門の守りとして武士が参詣していたものが
徐々に開運の神として信仰されるようになったという。

img_04.gif(江戸名所図絵より)
吉原が近くに越してきてからは
徐々に人気は浅草の鷲神社の方に移り、
吉原の縁起にちなんだオカメの熊手が売られるようになった。
この時ばかりは吉原の大門も四方が開けられ、気軽に出入りができたようだ。
お多福に熊手の客がひっかかり
これは当時、酉の市を口実に吉原に寄る男たちを表した川柳。
このことが「三の酉まであるときは火事が多い」と

今に伝えられることになろうとは…。
二の酉につづく、

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