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2014年4月 4日 16:21

公益財団法人東京フィルハーモニー交響楽団は、1911年から続く日本最古のオーケストラ。日本では最多、コンサートオーケストラとしては世界的にも異例の楽員数を擁している。日本では一番頻繁に新国立劇場などでオペラを演奏している交響楽団でもある。略称は東京フィル。(東フィルは通称)

アジアの極東である日本という地で西洋の音楽であるオーケストラを担う東京フィル。IMAGINAS編集部は、芸術とビジネスという両方の観点を俯瞰できる立場である東京フィルにインタビューを敢行。楽団長の石丸氏の口から語られたのはオーケストラを通じて明らかになる日本という国の特殊性であった。

 

100年前から同じで、全く違うもの


Q100年の歴史の中、東京フィルが、変えなかったという点、変えてきた点を教えてください。

Aオーケストラにとって変える、変えないというのは重大な問題ですよ。日本では百何年ですが西洋では4,5百年ほどの歴史があります。どこまで辿るかで長さも変わってきますけど、およそそれぐらい。数百年から1000年の歴史によって確立されたものなんです。ベートーベンさんだって亡くなったのが200年前でクラシック音楽の歴史全体から見れば全く新しい。その当時から楽譜、楽器、演奏服までも、ほとんど変わっていないんですから。

いうなれば永久不滅の確立した音楽がクラシックなんです。

 

Qでは指揮者による癖などを考慮するとどうでしょう?そうなると千差万別ですよね。

Aそう、ここまでは変わらない話。しかし全く同じ曲を次の日に同じ指揮者が同じ演奏をできるかって言われると、同じじゃないんです。同じことはできない。録音した物は別ですけど、オーケストラができた時は録音技術も無かったので当然生演奏だった。生演奏がクラシックという音楽の本質ですね。生演奏は毎回違います。全く同じ事を世界中のオーケストラがやってますけど、全部違う、しかも毎日違う。音を外すとかそういう意味じゃなくて、楽譜を正確に演奏していても違いが出てくる。スポーツも同じルールでも同じ試合はないですよね。観客の雰囲気も含めてしまえば更に違ったものになる。常に新しいのです。

例えば同じ芸術文化でも、絵とかは、消滅するまではそのままですが音楽はそれが無い。弾いた後から消えてしまう。ということは同じ曲でも同じものは2つとないんです。

 

クラシックの波

 

Q同じものが2つは無い。では時と場所によって指揮者をマーケティング的な意図で変えたりすることはあるんでしょうか?例えば大阪ではこの指揮者、東京ではこの指揮者、というように。

Aそれは無いですね。マーケティング的な意味に於いてはそのお客様の嗜好が第一で場所というのは2次的な要素ですね。

クラシックは歴史が長いですから、クラシックの中でも色々な聞き方があります。現代音楽も古典もロマン派も全部聴かれる方もいますけど、これしか聴かない、という人も居るんです。ワーグナーだけしか聴かない、モーツァルトだけしか聴かない、というように。作曲者によって指揮者を選択することはありますね。地理的な要素によって人を変えることは、ないとは言いませんが2次的、3次的な要素ですね。寧ろどういう音楽をやるかが大事。

例えば去年はワーグナーイヤーでしたから、ワーグナーシリーズが多かった。コンサート単位で固めてしまうことはよくあります。そのとき、時代で、我々も仕事ですから客層の多いところを狙っていきたいのでね(笑)。

 

300年のブランド


Qオーケストラって芸術としてあるのが第一義だと思うんですけど、ビジネスとしても両立していなければなりませんよね。

 

Aクラシックというのは一つのジャンルとして確立されていると認識しています?

Qはい

Aまずビジネスとして確立しているかという事に関しては少なくとも日本ではノーでしょう。それは宗教がビジネスとして確立しているのか、という事とよく似ています。

確かにクラシックを商品だとすると、非常に確立されている商品なんですよね。じゃあどこで確立されたかというと300年以前のヨーロッパで神、主にキリスト教と結びついて確立したのではないでしょうか。

神と並んで音楽が存在し不変のものとして確立した。だから世界中で同じものをやっていても不思議ではないですよね。

その後日本は、明治維新があって西洋化の国策の一つとして古来の日本音楽を押しのけてクラシックを普及させましたよね。他の西洋音楽や文化と共に西洋のものは良いものだという流れの中で国民も抵抗無く受け入れたのでしょう。

それまでの日本は”鎖国”が出来るほどの世界の地理的には東方の辺地の島だったので数千年間、他の国や民族とのかかわりが極端に少なく、例えばガラパゴスのように独自の進化と価値観を持つ事ができていた。その反面”比較する価値観”は国内にとどまり、グローバルな比較競争の免疫が希薄な民族になったのではないでしょうか。

そのときの西洋では民族の戦いや荒廃の中で音楽はすでに宗教と並んで数百年の歴史を持ち芸術文化として既に確立されていたんです。しかも文化や芸術の中で一番素晴らしい永久不変の芸術として。

それを西洋音楽として音楽だけを日本に持ち込んだわけですね。神抜きで(笑)。

だからブランディングは既に出来ていたものなんですね。ブランド中のブランドになっている。それがクラシック音楽だった。

明治維新という第一次グローバル化政策でガラパゴス日本諸島に移入された異文化種でしょうか。

何かの起源や本質がわかっていないのにそれを素晴らしいものだとして上から押しつけられたら、それが何なのか解らないままにブランドとして崇めるしかないんです。

西洋ではそもそも、毎週礼拝にいけば音楽があった。生活の中に神とともに馴染んでいた音楽だったんです。

日本人はそれを単に素晴らしいものだと思って持ち込んでいるわけですよ。

日本人は、昔は洋服も着ていなかったしネクタイも締めていなかった。でも今は何の違和感もないし、わざわざ着物着るほうが目立ちますよね。それも精々100年ちょっとの話なんですよ。西洋音楽も同じです。だいたい今は西洋音楽なんて言いませんよね。

そして今日の情報の革命が起きて、第二次グローバル化が起きているわけです。誰でも世界的な観点で比較検討ができる。ガラパゴス日本諸島に起きた第一次グローバル化は西洋文化が席捲したのですがいよいよ今度は世界を比較検討して価値を求めなければならない時代になったのではないですか。


後編はこちら(http://www.jlds.co.jp/imaginas/2014/04/post144.html#.U0emuqh_u6c)