私がつくる、未来への処方せん | セルフドクタークラブ 

 

 

長野でクリエイティブに生きる「生活芸術家」たちによる文化イベントを、 

長野駅直結のMIDORI長野3Fの「りんごのひろば」で開催。

長野の実りの象徴「りんご」をテーマに、地元ならではの音楽ライブとクラフト講座の

2プログラムを行い、暮らしを豊かにする収穫のあるひと時をお届けします!!

 

【プログラム1】

りんごライブ 

伊那市を拠点に活動するシンガーソングライター深瀬人寛さんによる、心ほぐれるピアノの弾き語り&トークショー。この日のために用意した、りんごがテーマのオリジナルソングもお聴きいただけます。

■時間:①13時~ ②15時~ 各回30分

■参加費:無料

 

 

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シンガーソングライター深瀬人寛さん

 

近日、深瀬人寛さんのインタビューもアップ予定!

 

 

【プログラム2】

「白樺キャンドルアレンジ作り」

塩尻在住、garden山屋主宰のガーデナー山村まゆさんを講師にお招きし、白樺のベースに針葉樹や小さなリンゴ、木の実をあしらい、冬中飾っておけるキャンドルアレンジ作りを行います。

 

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■時間:11時~16時(随時受付)

■お一人様:2000円(材料実費込み)

■先着:25名様

■所要時間:15-20分

※写真は過去のものでイメージです。

 

★ご参加の方には先着でりんごをプレゼント! 

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garden山屋 山村まゆさん

※リースの写真はイメージです。

 

山村さんのインタビューページはこちら

 




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上田市 上田電鉄別所線上田駅長

春原貞良さん

すのはら・さだよし1966年上田丸子電鉄入社。翌年甲種電気車運転免許取得(電車運転の免許)、丸子線運転士になる。69年別所線運転士、72年交通事業部自動車整備係へ。92年駅助役、94年別所温泉駅長、01年駅長兼駅務区長。07年退職後ハーモニカ駅長として活躍中。


「お客様を笑顔にしたい」と自ら電車に乗り込み、ハーモニカの演奏でもてなすユニークな駅長は、“ハーモニカ駅長”と呼ばれるようになった。ハーモニカのやさしい音色に合わせ、乗客たちが懐かしい曲を合唱する電車は人気を集め、廃線の危機に瀕していたローカル線はイメージアップ。全国から「ハーモニカ車に乗ろう!」ツアーも組まれている。きっかけは小さなことでもいい。大事なのは、成功するまで現場に立ち続けることだ。

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笑顔で帰っていくお客様を見送る時が幸せ

上田市を走るローカル線の車内に響く、ハーモニカのメロディと歌声。小さな子どもから高齢者まで、乗客の年齢層は様々だ。

車内でハーモニカを吹き始めたのは約10年前。待合室に大勢いたお客様を楽しませたい。どうしようか。ポケットには、前日に敬老会の余興で使ったハーモニカが入っていた。
「何か歌いましょうか?」。ハーモニカを手にお客様に声をかけていた。その日をきっかけに、今も車内で吹き続けている。
「自分が吹くハーモニカが、旅の思い出になってくれたらいい」
『千曲川』、『高原の旅愁』、『青い山脈』、『上を向いて歩こう』、『どじょっこふなっこ』などの歌詞カードを配り、ハーモニカに合わせて全員で大合唱だ。歌詞を知らない小さな子どもも、大人の口真似で歌う。日本語が分からない外国人はリズムをとって楽しんでいる。
「お客様の様子、年齢層に合わせて曲を選びます。大切にしているのは、全員に話しかけること。とにかく楽しくなるように。そろそろバトンタッチしたいけど、第二の人生はまだ描けていないから、とりあえず自分ができることを」

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別所線の別所温泉駅。ヤマトタケルによって発見されたと伝えられる信州最古の温泉がある。郷愁を誘うレトロな駅舎。

 

 

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別所温泉駅から下之郷駅まで13分間、ハーモニカ駅長のおもてなしが続く。

 


目指すは日本一のローカル線!

昭和(1966)年、上田丸子電鉄(現・上田電鉄)に入社以来、電車をこよなく愛してきた駅長が描き続けてきた夢は、同社に唯一残った別所線を〝日本一のローカル線〞にすることだ。
「60で定年を迎えてからは1年ずつ更新してやってきましたが、何が日本一か、どうすれば日本一になれるのか、いまだに具体的には分かりません。でも、自分が吹いてきたハーモニカが成功のきっかけぐらいにはなってくれたかなぁ。成功というのはちょっとしたきっかけ、工夫で導かれると信じています」

目標は大きい。そう簡単には叶わない。だから、いい。揺れる電車に立ち続けてきた足が痛むようになり、医師や整骨師からは「仕事をやめるしかない」と言われているが、明日のお客様のために、できる限り続けていきたい。

「上田電鉄の浮き沈みをどう乗り越えるか。とんでもないことに首を突っ込み、自分から仕事をつくってしまったけど、始めたからには成功させたい。まだまだ闘いの途上。諦めずにやっていくだけ。よろめいたら、やめるしかないですからね」

 

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安曇野に来て、色への感度が明らかに変わった

安曇野に移住してきたのは、今から20年ほど前のこと。仕事場兼住まいにできる広さと家賃の条件を満たすとなると、当時住んでいた兵庫からは離れ、東に行ったほうがよいだろう。そこで信州が候補に挙がった。たまたま紹介されたのが、安曇野の物件だった。

「内見をしに行った日がちょうど、紅葉のすごくきれいな日で。即決でした」

ここに住むようになってから、色への感度は明らかに変わった。

「関西で染色をしていた頃は、“和”の雰囲気なんですよ。でも、安曇野の雰囲気は“洋”。今まで作ってきた物を並べてみたら、すごく地味に見えたんです。安曇野に来てからは、使う色の幅が広がりました」

黄緑と黒は合わせないとか、それまで自分の中にあったタブーがなくなった。組み合わせに失敗なんてない。もっと自由に色を使っていいのだ。

「デザインで丸を1つ描くにしても、同じ大きさで描く必要はない。大らかになって、物を作るのがますます楽しくなりました」

 

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「白でもいいんだけど、そこにあるとすごくいい色というのがあると思う。そこの空気が変わるような色が」

 

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“伝統”も、初めは“革新”だった

「他の人が作らない物を作りたい。もちろん最初は真似から入りますが、そこをクリアして自分のものにしなきゃと思っています。伝統を大事にするのはよいのですが、その“伝統”も、初めは“革新”だったはず」

時代に合わないものは淘汰されていく。核となるものはそのままに、発展性をもたせることが大事だと考える。

「ただ闇雲に形を変えればいいわけではありません。世の中の流れを見て作る物を決めていきます。例えば、丸い形の暖簾を作ってみたらどうかという人がいますが、暖簾をかける出入り口は四角しかない。丸くする意味がないんです」

着物の世界では、黒だけでも多くの黒があるように、本来、日本人のDNAには四季に呼応した繊細な色のセンスが組み込まれているはずだ。それが効率化、大量生産化の波にのまれ、新しい色や組み合わせを、つくる側も買う側も挑戦しなくなっているような気がしてならない。

屋号にしている「十色屋」とは、“十人十色”をもじった名前。一人ひとりに合った色、落ち着く色がある。日本独自の細やかな色の表現はもっとあるはずだ。徐々に薄れている現代人の色への感度を、染色によって豊かにしていきたい。

 

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安曇野市 染色デザイナー

菊地均さん

きくち・ひとし 秋田県生まれ。専修大学文学部卒業後、広告代理店、クラフト関連会社を経て独立。87年染色工房キクチファクトリー設立。京都や大阪で活動した後、96年に安曇野市に移住。ショップ十色屋を開く。03年工房名を「atelier 10colours」に改名。現在地にて「十色屋」をリニューアルオープンする。

 

人工的な物にあふれた都市での生活では、色への感度が鈍っていくようでならない。豊かな自然に囲まれながら、西洋の文化も色濃く、どこかアンニュイな色が漂う安曇野という土地で、色の可能性を広げ続けている染色デザイナーがいる。タブーのない自由自在な組み合わせ。私たちは十人十色、一人ひとりが自分だけの色をもち、別の色と出会うことで、新たな世界を無限に広げていくことができるのだ。

 

大変な世界に入ってしまった

京都でサラリーマンとして働いていた時、知り合いから「モダンな漬物屋にかける暖簾を探している」と相談を受け、自分がその暖簾を作ろうと思った。染色の経験があったわけでもないのに、なぜそんなふうに思ったのか? 思えば、京都では呉服会社の営業をしていたこともあり、着物職人を訪ね歩いていた。仕事を通し、色や材料に関する感覚が磨かれていた。染料屋でアルバイトをしていた経験もあり、薬品の知識も多少はある。相談を受けた日の会社帰りには染料屋に寄り、材料を一通り買いそろえて実験的に染色を始めていた。

 

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それが今から30年ほど前のこと。初めて商品として染め上げたのは、ランチョンマットだ。よいものができたが、売ることが一番難しいことは、長年、営業職をしていた経験上分かっていた。

「大変な世界に入ってしまった。でも、アルバイトをしてでもこれを続ける」と妻にも宣言した。なぜならその当時、まだモダンな暖簾を作っている人はほとんどいなかったから。自分のスタイルも見えてきていた。

「アーティストではなくデザイナー寄りの仕事がしたい。作品性を追求するのではなく、建物やお客様の要望に合わせた暖簾を作ろう」

 

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「染料を買い、初めて染め上げた時に、それがとてもキレイだったんですね。だから、できると思ったんです」

 


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