私がつくる、未来への処方せん | セルフドクタークラブ 

 

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竹細工職人 田中久夫さん


須賀川竹細工振興会 会長

田中 久夫さん

 


江戸時代より須賀川地区に伝わる竹細工。

田中さんは、80歳を超えた現在でもモノづくりへの探究心を欠かしません。

伝統的な良さを守りながらも、新しい編み方を取り入れたり、

デザインに工夫を凝らしたりしています。使えば使うほど馴染んでくる竹細工。

最近では、作品に魅せられた人たちが、田中さんを訪ねてくるそうです。

 

 

●生活の中に溶け込むデザイン

 


振興会ではいま女性ががんばっています。

新しい編み方を提案してくるのはたいてい女性。ペンションやめて始めたいとか、

須賀川住民ではない人がやたら元気なんです。

今度、矢羽編みという手法を群馬県から先生を呼んで学ぶことにしていますが、

これはこれまで竹細工にはなかった編み方です。

去年も返し編みという古来の技術を復活させました。

一旦はすたれたものに、新しい人が取り組んでいるわけです。

 

それに、このところデザインを大事にしています。

ちゃんと生活に入り込むデザインを考える。これは大事なことだと思いますね。

80歳を超えたこの歳になっても、新しい編み方や、より好まれるデザイン、

形について勉強しています。

例えば狭い居住空間には丸よりも楕円形がいいのではないかとか、

いままでない形を考えることで、目新しさも増します。

魚籠(びく)を途中でちょん切って手をつけるだけで、

生活の中にずっと入りやすくなる。これをなぜやらなかったか、

考えなかったか、つまり、いかに我々が怠慢で惰性的で自分本位だったか、

ということなのです。

 

根曲り竹は、表面は強いが裏返すと曲げに弱い。

でも1年ものの竹を使って、ひねることでクリアできた。

これまで籐でやっていた技術を根曲り竹に取り入れたのです。

従来は2,3年ものしか使えないという固定観念がありましたが、

1年ものを使ってみたらできるし、強度も問題なかった。

これまでこのことに疑問を持たなかったわけです。

“サルが芋を洗う”ことを覚えたくらいの発見でしたね。


 

 

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●人と人をつなぐ“竹細工”

 


竹細工は、30~40年と使い込むほどにだんだん飴色に変わり馴染んできます。

プラスチックは最初が一番いい状態ですが、

「竹は時間が経ってからが、あなたにとって最高の道具になる」と

お客様には話しています。

 

私たちが作った、商品しおりには、

「あなたが育ての親、私は生みの親」と書いています。

先日、そのしおりを見た人が、「この表現には自分も参加する感覚があります。

 育て役だと思ったら生みの親にとても会いたくなった」と

わざわざ訪ねて来られました。作る人と使う人には距離があるものですが、

それはできるだけ近い方がいい。とてもいい言葉だと思いませんか。

言葉の大事さをこの歳になって感じます。もの作りは言葉づくりでもありますね。

 

このところ私の家を訪ねてくる人が増えました。

先日は神奈川県の藤沢からはるばる来られたし、ネットを見て、

と6人連れで来る人たち、松本から2時間運転してくる女性、

近いところに古民家を買って通ってくる人など、たくさんいらっしゃいます。

これは一体なんなのでしょうか。私は「時代」だと思います。

今は人同士の連帯感が薄く排他的でもある。

それは人間を冷たくしていくと思う。社会が変わってきている。

そこに私がいたということでしょう。だからこそこの活動は大事なのだと思います。

 

そして、そういう人たちは必然的に習得も早い。気持ちが違うとスピードが違う。

竹割3年、編み方3年で一人前と言われてましたが。

1年も経たずに竹割ができてしまう。私の立場がないですよね。

 

いま、これまで無理だと言われてきた竹割を機械化する方法を

研究していますが、その目途も立ちつつあります。

それが実現したら、竹割に使っている時間を編む事に使える。

いろいろ考えると、何だかとても楽しくなってきました。

これからも楽しみながら続けていきたいです。

前編はこちらです。

 

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<プロフィール>

 


 

たなか・ひさお

1963年(株)信濃旅行会社を退社後、新聞販売と牛乳販売店を開業。

77年須賀川竹細工振興会設立。80年新・須賀川竹細工振興会設立し、82年事務局長を経て、

98年会長に就任。現在に至る。

 


 

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竹細工職人 田中 久夫さん


須賀川竹細工振興会 会長

田中 久夫さん

 


 

須賀川地区は、長野県山ノ内町の北部にある自然豊かな町。

田中久夫さんは、江戸時代よりこの地に根づく伝統工芸「竹細工」を守り続けてきました。

時代の変化と上手く調和しながら、竹を編む喜びを後世に伝えます。



●伝統文化を守り、育てる

 


 

須賀川竹細工振興会ができたのは、今から30年以上も前のことです。

当時はどの家でも父と母、それに息子や娘など、

一家に2,3人は竹細工に携わっていました。

でも、製品は相場で買われていたので、

作れば作るほど安く買いたたかれるという状況があり、

「奴隷的家内工業」などと揶揄されることもありました。

 

そんな、あまり前向きになれない状況の中でスキーブームが来ました。

スキー場の仕事が増え、プラスチック製品も普及し始めたこともあって、

みな一気にやめていきました。

そんな苦労をしなくても収入が得られるわけですから、致し方なしですね。

 

しかし、その流れの中で、これまで懸命に竹細工工芸に

 取り組んできた者としては、「これこそが我々の生活を守ってきた文化だ、

なくしてはならない」と強く感じ、有志でいいからと逆に動き出しました。

それが昭和55年のことで須賀川竹細工振興会の設立につながりました。

そしてしばらくして、須賀川の竹細工製品が雑誌『クロワッサン』に取り上げられ、

その勢いにのって竹細工を売るために「ぼて市」という催しを開いてみたところ、

小さな集落に1万人もの人が集まり大成功を収めました。

この記録はまだ破られていません。

 

現在、飯山で定期的に実演販売していますが、

メンバーが率先して立ってくれるようになりました。

私が教わったおじいさんやおばあさんはもう亡くなられてますが、

そこで育てられた人たちが振興会を構成しています。

現在、16、17人いてがんばっているので、私もやめるわけにいきませんよ。


 

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手作業で編まれた「ざる」や「かご」はとても丈夫


●竹を編む喜びを知る

 


 

須賀川竹細工の歴史は古く、300年ほど前の江戸時代中期には、

須賀川に竹細工の文化が伝わったとされています。

でも、町の他地区にあるもっと古い資料には、

須賀川からザルをもらったという記載がありますから、

竹細工そのものにはもっと長い歴史があるのだと思います。

 

竹細工の伝統技術を伝えるために教室を開いていますが、

これは振興会設立以来、もう30年以上も続いていて、

今ではそこで学んだ人たちが私を追い抜き、

3,4年前からは、私よりも多くの作品を出し始めています。

おかげさまで、教室は盛況で生徒は約40人にもなっています。

初心者クラス、原料を材料にするクラス、高度な編み方のクラスの

3つにわけて対応しています。

 

須賀川は520戸ほどの村ですが、若い人たちはみんな出ていってしまって、

残っているのは老人ばかり。移住してくる人もいなくてある意味、限界集落です。

だから振興会も須賀川の人は私含めて2人、あとは他地域在住の方々です。

作品を出せるようになると振興会に入ってもらいますが、

そういう人も売れる喜びでまた作るようになる。

一本の竹からモノができる喜びは大きいものです。

 

 

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一つひとつ丁寧に竹を編む田中さん

 

●変化は逃さず、新たな挑戦を

 


 

昔からこだわっているのは、同じものは作り続けないということ。

生活の変化に伴うモノ作りをしないと飽きられてしまい、

絶対に継続していかない。そのために福島や茨城など、

いろいろな所に視察に行き日々学習しています。

竹細工など編込み工芸品の全国大会が福島県の三島町で開催されていますが、

そこで仕入れた多様な技なども積極的に取り入れるようにしています。

 

日本は、編む、組むといった生活文化がどんどんなくなっています。

今は籐が手に入りにくくなっており、

籐細工職人が竹細工をやるようになっている。

でも真竹は細工するには固く、

籐に似ているのは須賀川で使っている根曲り竹なのです。

 

根曲り竹細工にとっては今、一番いい時じゃないでしょうか。

ここはがんばっていかなくては。

籐の技術が入ってきているので、今まで根曲り竹細工にはなかったデザイン、

違う素材とのドッキングなども考えていいのではと思っています。

これまで籐細工のデザインだったものも、竹でもできるというものがあるはず。

素材の変更は難しいのではと思われていたものがありますが、

それは消費者にとっては新しい価値があるものなんです。

だからやろうよ、と声を掛け合っています、私自身、今一番元気な気がしますね。

変化はチャンス、逃げてはいけない。みなでそう話し合っています。

 

後編に続きます。

 

<プロフィール>

 


 

たなか・ひさお

1963年(株)信濃旅行会社を退社後、新聞販売と牛乳販売店を開業。

77年須賀川竹細工振興会設立。80年新・須賀川竹細工振興会設立し、

82年事務局長を経て、98年会長に就任。現在に至る。

 


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ふぞろいなのが当たり前

「自分たち百姓には分かるんです。思い通りにいかないのが当たり前。自然には勝てない。作物を蝶よ花よと育てても、隣の人と同じようにやっても、ダメな時はダメ。10穫れなければ、7穫るしかない。もう一度、種を蒔き直すしかない。ふぞろいだって当たり前。それにはちゃんと理由がある。なのに、都会の人はまっすぐな野菜をよしとする。地域には地域の文化があるのに、それをよしとせず、何でも都会がいいとして失敗した」

今やっていることは半分ビジネスで、半分ボランティア。これで稼ごうと思ってはダメだけど、ボランティアだけでは続かない。そして何より大切なのが、地域への思い。せいしゅん村では都会や海外から人を招き、農家に泊まらせ、農作業や農村の暮らしを体験させる。大事なことは、自分たちが普段やっていることをそのままやらせることだ。

「ここに来る人は、非日常的な空間である農村、日本の田舎の暮らしを求めてます。それなのに、都会的なことをやろうとすると、不自然になってしまう」

 

 

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先に生まれた者には、人を育てる義務がある

都会から子どもたちが来るようになると、シルバー層を越えた“ゴールド層のお年寄り”に笑顔が戻ってきた。

子どもたちから「おじいちゃん、おばあちゃん、ここはいいところだね。また来たいよ。こういうところで暮らしたい」なんて言ってもらえば、荒らしてあった畑をがんばって戻すようになる。子どもたちと触れ合い、子育てにかかわることで、高齢者たちは自分が世の中の役に立っていることを実感することができる。

 

 

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「先に生まれた者には、人を育てる義務がある。同時に、それは生きがいにもなります」

子どもたちの受け入れ希望者は年々増加している。村は活気づき、「武石は元気だな!」と評判を集め、エリア再生の成功モデルとして、全国から視察団が訪れるようになった。

「これからは農業と観光の連携を進めたい。日本中の村が後を追ってくれるといいね」

 


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上田市武石 信州せいしゅん村 村長
小林一郎さん
こばやし・いちろう 1951年生まれ。丸子実業高等学校卒業。96年モンゴルで自由主義経済に移行して発生した孤児や遊牧民の電気ガス水道のない暮らしを体験。「モノやお金の豊かさ」よりも「心の豊かさ」の大切さを悟り、農村活性化に取り組む。09年株式会社信州せいしゅん村設立。代表取締役就任。オーライニッポン大賞・日本農業賞・信州ブランド大賞・信毎選賞を受賞。
村の将来、日本の農村のあり方を憂いた仲間たちが、動かぬ行政や農協など頼りにせず、地域の課題だと思ったことを自分たちの力で解決した。ないものねだりはせず、村にあるものを最大限活かした地域再発見。目指したのは「サービス提供型農村」、「元気をもらえる村」、「都会から来てもらうことで成り立つ村」だ。高齢者は笑顔を取り戻し、村は活気づいた。今では、エリア再生を実践しているモデルとして国内外から多くの視察団が訪れる。
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意見のある人のところに人は集まる
「10年後、30年後、50年後、農村はどうなるのか?」
村の農政課長に聞いても、答えは「分からない」。ならばと、村の将来、日本の農村のあり方を憂いた村人たちが集まり、話し合った。人間は食べないわけにはいかない。だから農業は必要。同じように農村も必要なはずだ。
農協も行政も何もしてくれないのなら、自分たちで立ち上がるしかない。仲間たちが集まった。会の名は、のんびりするという意味の方言“のうのうする”と、農業を知る“農+know”をかけて「のうのうの会」。誰でもいい、どんな発言をしてもいい。行動への強制はない。最初は7人だった仲間が40人に増え、200人になった。
「ヒツジ100匹集めて、何とかしようというのが行政。でも、リーダーとなって引っ張っていくトラやライオンが2頭いれば、何でもできる。次に動ける者が5人集まれば、100人がついてくる。経済が収縮しても、人口が減っても、人々が安心して暮らせるようにする」
古民家を改修して作った「談笑コミュニティ 交流の駅《たけし》」。穫れたて野菜を使った手作りの食事を提供する、農家レストラン「里の食」を開店した。
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自分たちの村にあるものを最大限活かす
旧武石村には全国に出荷され、人気を集めた「まるたけトマト」があった。
「日本一のトマトでしたよ。でも、それにあぐらをかき、誰も果樹園を始めなかった。気づいたときには、不恰好なトマトはすたれ、村は窮地に立たされた。専業農家として生きていける者はいなかった。何もない。いや、何かあるはずだ。地域再発見。村にあるものを最大限活かすしかなかった」
目指したのは「サービス提供型農村」、「元気をもらえる村」、「都会から来てもらうことで成り立つ村」。まずは、エリア再生の中心として、談笑コミュニティ 交流の駅《たけし》を作った。
エリア再生のアイデアは、「あれしてみたい」、「これ困っているな」という発想、着眼から生まれる。やりたいことをどんどんやる。地域の課題だと思ったら、自分たちで解決する。仲間がいるから、後から後から浮かんでくる。それを大きく手を広げて、受け入れる。
「行政が支援してくれなくても、許可してくれなくても、やってしまえ」
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「里の食」には40席。武石地区で穫れた新鮮な野菜も販売している。

 


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