#06 田村久美子インタビュー


誰かに届けたいから、手の中に収まるサイズ。

E:ロンドンの大学で絵を勉強されていたんですよね。今回のシリーズのような立体物に絵を描く作風になったのは、ロンドン時代から?

T:そうです。最初は普通にキャンバスに油絵を描いたりしていました。アトリエも学生みんなで共有していたんですが、英語が出来ないから、行ったばかりの頃は遊ぶ友達も誰もいないし、油絵って乾くのに時間がかかるんですが、乾くのを待っている間にやることがない。ふと床を見たら木片が転がっていて、まぁこんなものにでも何か描いてみたら面白いのかも知れないなって始めてみたら、「あれ?なんかいいかも」って・・・。きっかけはドラマチックかと言えばそうではなく、そこに転がっていた木にキャンバスの代わりに描いてみたっていうだけ。

E:ある意味、ドラマチックですけれどね。

T:お金もなかったし、何かやるにしてもお金を使わずにいかに生きていくか、という時だったから。共有のアトリエには木片なんていくらでも転がっていてタダだし、「この木、誰の?」って思っても、その言い方も分かんないから、こんな感じ(木片を高く掲げて「これ、もらっていいですか?」のジェスチャー)で見せたら、みんな変な日本人が何か言っているけどOKじゃない?みたいな反応で(笑)。それが始まりといえば始まりです。

K:ロンドンには、どれくらいいたんですか?

T:丸2年くらい。ヨーロッパの学生って1年毎に大学を変えたりする。みんな2年目は別の大学に行ったりして、ロンドンに残るという人もいれば、別の国へ移る人もいた。だから、そこでお別れになるクラスメイトがほとんどで。その頃にはさすがに仲良くしてくれる友達もいて、いろんな人に木片に描いた作品をあげたりしていました。それぞれの場所に一緒に私の作品も持って行ってくれて、ひとつの世界の中で、その“セカイ”もいろんな場所に移動するって面白いなって思った。そのときに「ギフト」っていうコンセプトが浮かんで、形もそれまで長方形とかバラバラだったのを正方形に決めた。今回の『A Piece of The World/セカイのカケラ』シリーズは、その「ギフト」の延長です。

E:世界中に田村さんの“セカイ”が散らばっている様な感じですね。

T:そうですね。自分の手から離れても、それを持っていてくれる人からエピソードが届く。最近も作品をあげた友達から「窓辺に置いてるよ!」て、写真付でメールをくれて「ちゃんと、あるよ」て伝えてくれる。嬉しかったのは、リビングに私の作品を飾っているという方がいて、「朝は田村さんの絵とともにあるんだよ。」て言ってくれて。朝起きてコーヒーを飲んだりする時に必然的にその絵を見るんだそうです。その人の生活の中にもう自然にあるんだなって・・・。

E:この小さなサイズ感はどうやって生まれたんですか?

T:例えば、美術館などに展示してある作品って、基本的に近寄れないようになっていますよね。でも、触ったり近寄ったり横から観たりしたいじゃないですか。作品が誰かの触りたいって衝動を起こさせた事をもっと受け入れてもいいと思うんですよね。だから私は手に取れる作品としてものを作ってみようと考えて、手に取れるサイズになっていった。小さなものになっていったのは、どこにでも自然と届けることができるかもと思ったから。誰かに届けたいって思うから。
「つまらないものですが、よろしかったらひとつ」という感じの、日本人的精神のような(笑)。これくらいの大きさだったらどこにでも置けるしって、(受け入れる側の)間口も広くなる。

K:ものを作る人って、人それぞれ、私も含めて、「自分のものづくりスケール」がある。形や大きさを変えても、伝えたい事は同じですよね。

E:例えば、触っていて傷がついたり、剥げたりしてもそれはそれで有りだと?

T:それはそれで。「傷は勲章」みたいな(笑)。誰かが買ってくれた作品は、半永久的に修理しますよって気持ちですし、私が生きている限りは修理できる。その作品を通じて作家にコンタクトをとれるって、私が購入した側だったら嬉しい。そういうことでも私は人と繋がっていると思っています。そういう意味で触ることを拒否しない作品があってもいいのかなと思うんです。

E: Small Art Museumの「生活の中にあるアート」というコンセプトをどう思うか、いつも作家の皆さんに最後に聞いているんですけれど、その答えがいま聞けたかと思います。
「作って終わり」ではなく、受け手に渡ることに意味があるんですね。

T:そう、受け手にストーリーをあずけるような・・・。作っていることは、繋げていくことだという気がします。与えるだけじゃなくて、出会ったことによって、繋がったり生まれたり、はじまる。それが多分やっていて面白いところですね。受け手が作品を心地よい様に生活に取り入れていけばいい。その方が嬉しい。制作中は大変でも、それを感じたときには一瞬で大変だったことは帳消しです(笑)。それがたまらなくて続けているのかも知れない。

 

世界はシンプルに成り立っている。 

 

E:今回のシリーズは、全部に地平線があってほんのりグラデーションになっている。夕暮れなのか、日の出なのか、不思議な風景ですね。

T:これらは、ひとつの時間を切り取っているわけではないので、見る人によって、夕暮れを感じるかも知れないし、次の日の朝のことを考えるかも知れない。ある種の普遍性を描きたいんです。青をけっこう使っていることが多かったんですけれど、「あの時の青空」という限定ではなく、誰かの心に寄り添える、ニュートラルなものにしています。だから今回のシリーズでも、普通こんな色の空はないという作品もあるけど、それを見た人が、何かを考えるきっかけを与えるものであったらいいですね。

E:シンプルな構図で描き続けているのはどうしてですか?

T:私の故郷の長野県は完全に四方を山に囲まれていて、どこを見てもヌケがないので、東京に来て山がなくて驚いた。でもロンドンは東京以上に平らで果てしないんです。ずーっと遠くまで眺めていくと景色が霞んで、地面が空と一体になる。渡英したばかりの友達もいない頃、セントポール大聖堂っていうドーモ(高さのある半球型屋根の教会)が好きで何かあるとよく行っていたんですね。そこの塔の上からロンドンの景色を眺めると「彼方向こうには私の知っている人もちゃんといる、大丈夫、繋がってる。」って元気をもらっていました。帰り道には、ひょっこりひょうたん島を口ずさむ、みたいな。その時に、世界ってシンプルに成立していると思ったんです。そのときの光景が作品にも反映されていると思います。
それまでは、「手数勝負!」みたいな作品を描いていて、描き込むことで安心していたところがあったと思うんです。でも、誰も私が何を作ってきたのかも知らない、じゃ、まるっきり新しい作品を作ってみようって描き始めたのがこのシリーズです。その無心に描いた一枚がきっかけで、みんなが話しかけてくれるようになったりして、友達が出来たんですよ(笑)。

E:それは、木片を拾って描いた頃と同時くらい?

T:そうですね。

K:初めて見たときは、芝生と空と地平線って、普遍的なものなのに、なんか不思議なものに見えた。

 

みる側も、アーティスト。 

 

E:制作において、ご自分のルールや流儀はありますか?

T:あえて意識していることはないんですが、ひとつ言えるのは自分が楽しめているか。気持ちいいかどうか。

E:どうしても制作を楽しめないことってありますか?

T:ノッてないときは辛いですよ。「なんか違う」と思いながら色を変えたりして、最終的に「こんなもんかな」で止めた作品は、やっぱり全然ダメ。かわいくないんです。最近、4月の展覧会に向けて作った作品でもそんなことがありました。搬入の為にも早く乾かせたいし、ちょっと余裕を持って「こんなものかな」と一度筆を置いたのだけど、やっぱりひと晩中ずっと引っかかっていて、何もしないかもしれないけど、もう一度じっくり見てみようと、後日アトリエに行ってそれを見たとき、やっぱり筆をとって直しました。当たり前だけど、出来た作品に言い訳はしないようにしよう、という気持ちはありますね。

E:楽しい制作時間と、楽しくない制作時間のバランスは?

T:普段のことでもそうですが、楽しい時間はあっという間。悩んでるときは今日も、昨日も…って時間をカウントするから、長く感じます。実際バランスは半々くらいかな。でも、誰かが喜んでくれたりして、(辛かった時間が)帳消しになっちゃう一瞬があるから、全部それで救われます。

E:最後に、田村さんにとって、表現することとは何でしょうか?

T:“この世界にいること”じゃないかと・・・。上手く言えないけど。
絵を描くことって私の場合、感情を揺さぶられることなんです。制作している時にも、出来た作品にも喜んだり苦しんだりすることがある。そこに自分がいて人と繋がって、それを感じるために絵を描く、表現するのかなって思います。
ただ、日々生活することも表現だし、生きていること自体、表現なんだと思いますけれどね。作品を観る側の人も、作品と出会って何かを感じとる「アーティスト」なんだと思います。

(T:田村氏 E:遠藤 K:久保 2010年3月27日 田村氏の自宅にて)

 

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